ゲームと選択

プレイヤーは無限ではない

ゲームは増え続けても、プレイヤーが注げる時間、注意力、身体の余力は増えない。

ゲームはいくらでも増やせる。次のセール、次の実績、次のイベント。しかし、プレイヤーが一日にゲームへ割ける時間と注意力は、それに合わせて増えてはくれない。

ストアでは何度もセールが開かれ、ついもう一度見てしまう。ゲームを始めれば、収集要素、実績、二周目が待っている。継続運営型の作品では、デイリータスクや期間限定イベントが、戻ってくる理由をつくる。

こうした仕組みが、必ずしも悪いわけではない。セールは作品に触れる人を増やす。追加コンテンツは、本当に好きな体験を長く楽しませてくれる。継続的な運営があるからこそ、ゲームが存在し続けられることもある。

問題は、どれも結局、プレイヤーの時間、注意力、身体を使うことだ。業界全体が「手に取ってもらう、留まってもらう、戻ってきてもらう」方法を学ぶなかで、プレイヤーが選び、休み、離れるための余白は、誰が設計するのだろう。

足りないのはゲームではなく、プレイヤーが差し出せる時間

ゲームは昔から少なくなかった。しかし、デジタルストア、セール、ウィッシュリスト、サブスクリプションのカタログ、毎週の無料配布、複数端末でのプレイによって、一本のゲームが私の選択肢に入るまでの距離は大きく縮まった。プレイヤーにとっては選択肢が増え、小規模な開発者にとっては、実店舗の棚を確保しなくても作品が人に出会えるようになった。

こうした変化の多くには、確かな価値がある。選択肢が多いこと自体が悪いのではない。新しいゲームは増え続けても、一日は二十四時間のままだということが問題なのだ。

これからプレイヤーは、さらに密集した新作発表と、より速い発売のペースに向き合うかもしれない。インディーゲームの成長は、生成 AI よりずっと前から始まっていた。成熟したゲームエンジン、素材マーケット、デジタル流通、オンライン教材によって、すでに多くの小規模チームが作品をつくれるようになっている。AI は試作、翻訳、制作工程の一部をさらに速める可能性がある。それが、実際に注目に値するゲームをどれほど生むのかは、まだわからない。より多くの地域がインターネットにつながれば、言語、文化、遊び方の幅も広がっていくだろう。

新作が増えても、信頼でき、遊ぶ価値があると思えるゲームを完成させることは難しい。すべての作品が見つけてもらえるわけでもない。ゲームの数と種類が増える一方で、注意と収益は少数の人気作に集中し続ける可能性がある。ゲームをつくる人が増えるほど、本当に足りなくなるのはコンテンツではなく、プレイヤーが一本の作品を信じ、理解し、時間を注ごうと思える余裕なのかもしれない。

それぞれが、ひとつの合理的なことをしている

プレイヤーは、遊ぶ価値のあるゲームを見つけたい。

デザイナーにも現実的な圧力がある。プレイヤーは、何時間遊べるのか、価格に見合う内容があるのかを尋ねる。チームは、苦労してつくった仕組みを一度きりで終わらせたくない。収集要素、実績、二周目、そのほかの追加コンテンツは、必ずしもプレイヤーを引き留めるためだけにあるのではない。作品の厚みを示し、長く話題に残し、チームが次へ進む機会をつくることもある。

パブリッシャーや運営側は、プレイヤーが残ったかどうかを知る必要がある。そうでなければ、製品を続けられるか判断しにくい。

プラットフォームには、大量のゲームを検索、推薦、購入、再発見できるようにする役割がある。

ひとつずつ見れば、どれも合理的だ。しかし、すべてがつながると、別の結果が生まれることがある。

ゲームはコンテンツを増やし、戻る理由をつくる。運営はプレイ時間、継続率、再訪を記録し、どの設計が機能したかを判断する。プラットフォームは購入、プレイ、操作のデータから、次に興味を持ちそうなゲームを勧める。さらに多くの作品が市場へ入り、同じ人たちの時間を取り合い始める。

プレイヤーは、どのゲームを遊ぶか選んでいるだけではない。「どうすれば手に取り、留まり、戻ってくるか」を学び続ける仕組みのなかで暮らしている。

これは、すべてのゲームがプレイヤーを操作しているという話ではない。長い物語、高難度の挑戦、二周目、デイリーイベント、推薦システムは、どれも本物の楽しさを生みうる。繰り返し練習し、美しいノーダメージ攻略を達成することが好きな人もいる。ひとつの世界で何百時間も過ごしたい人もいる。それが本人の望みなら、外から「適度」を決める必要はない。

私が気にしているのは、別のことだ。あらゆる工程が、どうすればもっと時間を得られるか計算しているとき、プレイヤーにはもう差し出せる時間がないことを、誰が見つけるのだろう。

プレイヤーが有限なのは、忙しいからだけではない

「時間がない」という言葉は、本人の時間管理の問題にされやすい。しかし、ゲームにどれだけ向き合えるかは、仕事、収入、ケアの責任、健康、疲労、操作の負担、認知状態にも左右される。

週に一、二晩しか遊べない人もいる。長時間は遊べても、精密な操作を求められる挑戦には耐えられない人もいる。数週間離れると、仕組みを忘れて戻りにくくなる人もいる。すべての実績を取る能力はあっても、限られた休息時間を何度もの試行錯誤に使いたくない人もいる。

どれも、ゲームへの愛情が足りないということではない。

ゲームデザインはしばしば、内容が十分によければ、プレイヤーはさらに時間を使うと想定する。しかし、そのゲームが好きであることと、ゲームから求められるすべてを完了したいことは別だ。プレイヤーが離れても、ゲームが失敗したとは限らない。本人にとって十分に完結した体験を得たのかもしれないし、ほかの生活に時間を残す必要があっただけかもしれない。

プレイ時間、完了率、再訪だけでプレイヤーを理解しようとすると、「止めること」をすべて修復すべき離脱と読み、「もう十分楽しんだ」という感覚まで、長く遊ばせる力が足りない証拠だと誤解しやすくなる。

ゲームが利益を得ることに反対しているのではない

すべてのゲームが継続率を中心指標にする必要はない。それでも、開発、販売、保守には資源が要る。情熱から始まった作品であっても、チームは給与、時間、プラットフォーム、今後の運営という現実に向き合わなければならない。

やり取りは、購入した瞬間に終わるものではない。

プレイヤーは、時間、注意力、学習コスト、感情、身体への負担も支払っている。それらは売上の数字には十分に現れないが、ゲームが実際に生活をどれだけ占めるかを決めている。

だから問うべきなのは、ゲームがプレイヤーに投入を求めてよいかどうかではない。

ゲームが継続的な投入を求めるとき、プレイヤーはその時間と引き換えに何を受け取るのか。

見返りは、報酬を得る瞬間やエンディングを見る瞬間だけにあるのではない。プレイヤーが体験の主導権をどれだけ保てるかも含まれる。旅に必要な時間をおおよそ知ることができるか。しばらく離れても戻れるか。期間限定イベントを逃し、二周目をせず、実績の全解除を諦めても、ひとまとまりの体験を持って離れられるか。

ゲームはすでに、特定の年齢層だけのものではない。若いころから遊び続けてきた人は、仕事、家族、ケアの責任、変化していく身体とともに、大人になってもゲームを続ける。

プレイヤーも固定された仕様ではない。今日、夜更かしができ、素早く反応し、複雑な仕組みを覚えられるからといって、将来も同じ時間、体力、記憶力があるとは限らない。条件が変わったとき、必要なのはコンテンツの追加ではなく、休み、思い出し、別の方法で続けられる余白かもしれない。その余白もまた、ゲームがプレイヤーへ返せるものの一部だ。

私がほどきたい循環

このシリーズでは、三つの動作から始める。手に入れる、投入する、戻ってくる。

まず、なぜゲームはこれほど簡単に積み上がるのか、プラットフォームはどうやって次の一本を常に目の前へ置くのかを見る。次に、実績、収集、二周目、追加コンテンツが、いつ体験を深め、いつ完了のコストだけを増やすのかを考える。最後に、継続率、デイリータスク、イベント周期、再訪施策へ戻り、プレイヤーの「戻ってくること」が、どのように計測できるビジネス課題になったのかをたどる。

プレイヤーに遊び方を指図したいわけではない。開発者に、コンテンツを減らしてほしいわけでもない。それぞれに合理的な理由がある循環のなかで、プレイヤーは「まだ遊びたい」と「続けるべきだと感じている」を、もっとはっきり見分けられるのか。それを知りたい。

これからも新しいゲームを買うし、好きな作品には長く留まる。ただ、その時間は、ライブラリやイベントページや実績一覧に空欄が残っているからではなく、自分で差し出すと決めた時間であってほしい。

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